福岡市のベッドタウンとして近年注目の集まる粕屋町に、長年美味しい洋菓子を作り続けている一人の洋菓子職人がいることをご存知だろうか?
今回は洋菓子店サクレクールオーナーシェフの嶋田郷士さんに「洋菓子職人への道のり」についてお話しを伺いました。

福岡市のベッドタウンとして近年注目の集まる粕屋町に、長年美味しい洋菓子を作り続けている一人の洋菓子職人がいることをご存知だろうか?
今回は洋菓子店サクレクールオーナーシェフの嶋田郷士さんに「洋菓子職人への道のり」についてお話しを伺いました。


不機嫌な父と空っぽの青春時代


西川:

明るい雰囲気をお持ちの嶋田さんですが、どんな幼少期を送ってきましたか

嶋田:

私は福岡市で生まれて、サラリーマンの父と専業主婦の母のもとで育ちました。同級生と比べて特に裕福ということもなく、ごく一般的な家庭だったと思います。父は無口で堅実な性格の持ち主でしたが、幼かった私の目には「いつも不機嫌な父」に映っていましたね。私の幼少期は、そんな不機嫌な父を何とか喜ばせたいという気持ちが強かったように感じます。

父に「学校では、とにかく積極的にいけ!自分から手を挙げろ!」と言われ、そうすれば父が喜んでくれると信じていました。学内のマラソン大会でも1位になったり、所属していた少年野球チームでは自ら手を挙げ副キャプテンにもなりました。父の言うように、あらゆることに積極的になることで次第に毎日が楽しくなっていき、気づけば多くの友人に恵まれ、思い出に溢れた小学生時代になっていました。

西川:

楽しい小学生時代だったんですね。中学や高校時代も同じように楽しい思い出が多くありますか

嶋田:

なかなかそう上手くはいきませんね。振り返ると中学の入学式の日でしたね。初めて会うクラスメイトの前で「みんな!嶋田です。よろしくな!」と大きな声と満面の笑顔で挨拶をしたんです。それは、小学生時代に持ち前の「積極性」で多くの友人をつくってきたという自負があったからできたのかもしれません。しかし、その行動は小学生時代とは違った結末へ向かうものとなっていきました。多様な価値観を持った子供たちが集まる中学校において、私の持つ積極性は一部の人たちの目には「異質」なものとして映ったのかもしれません。

入学式を終えたその日の下校時でした。「よう!一緒に帰ろうぜ!」と声をかけてきたのは、お世辞にも育ちが良いとは言えない不良グループだったんです。それからは、毎日のように彼らと行動をともにするように強いられました。持ち前の明るさとユーモアで、陰湿なイジメに発展することはありませんでしたが、私が思い描く中学時代を過ごすことはできませんでした。

西川:

小学校時代と比べて、まったく違った中学時代ですね。両親に相談したりはしなかったんですか

嶋田:

中学生でしたし両親に相談したいなという気持ちはあったんですね。ただ、その頃の両親の夫婦仲は最悪でした。毎日のように夫婦喧嘩を繰り返していたんです。そんな環境の中で、両親に相談することも難しかった記憶がありますね。普段から不機嫌な父も、いつにも増して不機嫌でしたし、私と顔をあわせるとすぐに説教が始まっていました。父に歯向かって激昂させれば「気にいらないなら…出ていけ!」と突き放されます。学校に行けば不良の仲間からイジられて、家に帰れば父からの説教と両親の喧嘩。いつの間にか自分の居場所が無くなっていました。

そんな私の唯一の救いは、所属していたサッカー部の仲間たちでした。共に汗を流して他愛のない話をする瞬間が、私の精神を支えてくれていました。彼らとの出会いがなければ、私の心はとうに壊れていたと思います。本当に感謝してますよ。

西川:

輝いた小学校時代、居場所をなくした中学生時代。高校時代はどんな学生だったんですか?

嶋田:

中学時代にそこそこ勉強はできたので、学区内の進学校に入学することになりました。しかし、勉強についていけたのは入学当初だけでしたね。次第に勉強についていけなくなり、学校をサボっては同級生たちと遊びに行く機会が増えていきました。勉強もせずに遊んでばかりだったので、3年時には卒業が難しいかもしれないという状況に追い込まれていました。卒業するために何とか出席日数を稼いでギリギリ卒業することはできましたが、卒業後の進路については何も決定していなかったんです。卒業生430人のなかで進路が決まっていないのは、わずか2名。そのなかの1人が私だったんです。

中学・高校を振り返ると「からっぽの時代」という印象ですね。

不機嫌な父と空っぽの青春時代



嶋田:

私は福岡市で生まれて、サラリーマンの父と専業主婦の母のもとで育ちました。同級生と比べて特に裕福ということもなく、ごく一般的な家庭だったと思います。父は無口で堅実な性格の持ち主でしたが、幼かった私の目には「いつも不機嫌な父」に映っていましたね。私の幼少期は、そんな不機嫌な父を何とか喜ばせたいという気持ちが強かったように感じます。

父から「学校では、とにかく積極的にいけ!自分から手を挙げろ!」と言われれば、そうすることで父が喜んでくれると思って、実行していましたね。学内のマラソン大会でも1位になったり、所属していた少年野球チームでは自ら手を挙げ副キャプテンにもなりました。父の言うように、あらゆることに積極的になることで次第に毎日が楽しくなっていき、気づけば多くの友人に恵まれ、思い出に溢れた小学生時代になっていました。

嶋田:

なかなかそう上手くはいきませんね。入学式の日に初めて会うクラスメイトの前で「みんな!嶋田です。よろしくな!」と大きな声と満面の笑顔で挨拶をしたんです。それは、小学生時代に持ち前の「積極性」で多くの友人をつくってきたという自負があったからできたのかもしれません。しかし、その行動は小学生時代とは違った結末へ向かうものとなっていきました。多様な価値観を持った子供たちが集まる中学校において、私の持つ積極性は一部の人たちの目には「異質」なものとして映ったのかもしれません。

入学式を終えたその日の下校時でした。「よう!一緒に帰ろうぜ!」と声をかけてきたのは、お世辞にも育ちが良いとは言えない不良グループだったんです。それからは、毎日のように彼らと行動をともにするように強いられました。持ち前の明るさとユーモアで、陰湿なイジメに発展することはありませんでしたが、私が思い描く中学時代を過ごすことはできませんでした。

嶋田:

中学生でしたし両親に相談したいなという気持ちはあったんですね。ただ、その頃の両親の夫婦仲は最悪でした。毎日のように夫婦喧嘩を繰り返していたんです。そんな環境の中で、両親に相談することも難しかった記憶がありますね。普段から不機嫌な父も、いつにも増して不機嫌でしたし、私と顔をあわせるとすぐに説教が始まっていました。父に歯向かって激昂させれば「気にいらないなら…出ていけ!」と突き放されます。学校に行けば不良の仲間からイジられて、家に帰れば父からの説教と両親の喧嘩。いつの間にか自分の居場所が無くなっていました。

そんな私の唯一の救いは、所属していたサッカー部の仲間たちでした。共に汗を流して他愛のない話をする瞬間が、私の精神を支えてくれていました。彼らとの出会いがなければ、私の心はとうに壊れていたと思います。本当に感謝してますよ。

嶋田:

中学時代にそこそこ勉強はできたので、学区内の進学校に入学することになりました。しかし、勉強についていけたのは入学当初だけでしたね。次第に勉強についていけなくなり、学校をサボっては同級生たちと遊びに行く機会が増えていきました。勉強もせずに遊んでばかりだったので、3年時には卒業が難しいかもしれないという状況に追い込まれていました。卒業するために何とか出席日数を稼いでギリギリ卒業することはできましたが、卒業後の進路については何も決定していなかったんです。卒業生430人のなかで進路が決まっていないのは、わずか2名。そのなかの1人が私だったんです。

中学・高校を振り返ると「からっぽの時代」という印象ですね。


人格者の堕落と魂の抜けた大人たち…


西川:

嶋田:

今の仕事である洋菓子職人になるのは、もう少し後になります。卒業後は「遊ぶために100万円を貯める」という理由で、友人と浜松にある自動車部品工場の期間工へ応募しました。給料も良く、寮も完備されていたのでワクワクしながら友人と二人で向かったのを覚えています。

しかし、工場で私達に割り当てられた仕事は、部品を加工機にセットするという単調な作業の繰り返しでした。朝から晩まで同じ作業を繰り返し、車のどの部分に使われるのかも分からない製品を何百・何千と作り続けました。単純作業の繰り返しに一緒に来ていた友人はすっかり疲弊してしまい、入社後1週間でギブアップしてしまったんです。友人だけを一人で先に帰すわけにもいかず、私も退職し福岡へ戻ることにしました。

浜松の寮を出て、すぐに福岡に帰るのももったいなく感じた私達は、少しだけ寄り道をして中学時代の友人が住む東京に向かったんです。彼は中学時代にサッカー部をキャプテンとしてまとめ上げ、多くの仲間から慕われる人格者であり、高校では勉強にも打ち込み慶應義塾大学に入学していました。久しぶりの再会を楽しみに彼の住む家に向かうと、そこには中学時代の勤勉で抜群のリーダーシップを持った彼の姿はありませんでした。大学にも行かずに朝から晩まで麻雀に明け暮れる自堕落な生活を送っている彼がいたんです。その光景は当時の私にとって、とてもショックだったことを覚えています。

西川:

嶋田:

尊敬していたキャプテンの堕落した姿や工場で目の当たりにした魂の抜けたロボットのような大人たちなど、私にとって初めての仕事の経験は衝撃的なものばかりでした。福岡を出発したときのワクワク感は既に無く、ショッキングな気持ちを抱えながら福岡へ戻ることになります。

その電車内で改めて今日までの日々を振り返りました。輝いていた小学生時代、空っぽの中高生時代…自分には何もないな…と落胆しながらも、それと同時に「自分が夢中になれる何かを得たい!」と強く思ったことを覚えています。高校を卒業してから浜松に渡り、数週間後には福岡に帰って来るという流れは、一見、時間を浪費した旅に見えるかもしれませんが、振り返ってみると、私にとっては『固い決意』を獲得することができた大切な時間だったんだと改めて思いますね。

人格者の堕落と魂の抜けた大人たち…



嶋田:

今の仕事である洋菓子職人になるのは、もう少し後になります。卒業後は「遊ぶために100万円を貯める」という理由で、友人と浜松にある自動車部品工場の期間工へ応募しました。給料も良く、寮も完備されていたのでワクワクしながら友人と二人で向かったのを覚えています。

しかし、工場で私達に割り当てられた仕事は、部品を加工機にセットするという単調な作業の繰り返しでした。朝から晩まで同じ作業を繰り返し、車のどの部分に使われるのかも分からない製品を何百・何千と作り続けました。単純作業の繰り返しに一緒に来ていた友人はすっかり疲弊してしまい、入社後1週間でギブアップしてしまったんです。友人だけを一人で先に帰すわけにもいかず、私も退職し福岡へ戻ることにしました。

浜松の寮を出て、すぐに福岡に帰るのももったいなく感じた私達は、少しだけ寄り道をして中学時代の友人が住む東京に向かったんです。彼は中学時代にサッカー部をキャプテンとしてまとめ上げ、多くの仲間から慕われる人格者であり、高校では勉強にも打ち込み慶應義塾大学に入学していました。久しぶりの再会を楽しみに彼の住む家に向かうと、そこには中学時代の勤勉で抜群のリーダーシップを持った彼の姿はありませんでした。大学にも行かずに朝から晩まで麻雀に明け暮れる自堕落な生活を送っている彼がいたんです。その光景は当時の私にとって、とてもショックだったことを覚えています。

嶋田:

尊敬していたキャプテンの堕落した姿や工場で目の当たりにした魂の抜けたロボットのような大人たちなど、私にとって初めての仕事の経験は衝撃的なものばかりでした。福岡を出発したときのワクワク感は既に無く、ショッキングな気持ちを抱えながら福岡へ戻ることになります。

その電車内で改めて今日までの日々を振り返りました。輝いていた小学生時代、空っぽの中高生時代…自分には何もないな…と落胆しながらも、それと同時に「自分が夢中になれる何かを得たい!」と強く思ったことを覚えています。高校を卒業してから浜松に渡り、数週間後には福岡に帰って来るという流れは、一見、時間を浪費した旅に見えるかもしれませんが、振り返ってみると、私にとっては『固い決意』を獲得することができた大切な時間だったんだと改めて思いますね。


洋菓子の世界を教えてくれた厳格な師


西川:

嶋田:

実は「洋菓子職人に俺はなるんだ!」という強い意志を持ってスタートしたものではないんですね。福岡に戻ってきて、改めて自分は何がしたいのかを考えていたんです。そんな時に父と過ごす日常の一コマを思い出しました。

家にいるときの父はいつも不機嫌で無口なんですが、たまに私の作る焼きそばやお好み焼きを食べると「お前の作った料理は、かぁちゃんより旨いぞ」と褒めてくれるんです。それがとても嬉しかったんですよね。そんな思い出を振り返るうちに、何にもないと思っていた自分自身にも「何かを作って人を喜ばせることができるじゃないか!」と気づいたんです。

その思いは「モノを作って人を喜ばせることをしたい!」という、自分の進むべき方向を照らしてくれました。

西川:

嶋田:

自動車部品工場を辞めて福岡に帰ってきた後に、私は「マキシム」というケーキ屋さんに入ることになります。福岡県内では広く知られている有名店でした。「何もない自分だから、何かを得たい!」と本気で思っていましたから、どうせ身を置くなら厳しい環境で仕事をしたいと考えていました。

覚悟を胸に働き始めたものの、想定を超えるような環境に驚きました。労働時間の長さはもちろんですが、職人という世界なので指導も厳しく一瞬たりとも気を抜くことは許されませんでした。その厳しさで私を含め同僚たちは次々と体調を崩して入院するということも珍しくありませんでした。

華やかなイメージがあった洋菓子の世界でしたが、そのイメージとはウラハラに厳しい世界であることを18歳の私は痛感しましたね。それでも逃げ出さなかったのは、東京から福岡に戻る時に決意した「私には何もないから…だから何かを得るんだ!」という強い思いがあったからだと思いますね。

西川:

嶋田:

師匠は東京の有名店で長年修行をして腕を磨いてきた超一流の菓子職人です。私は現在の歳まで洋菓子職人として様々な人の技術を見てきましたが、日本において師匠より技術を持った人には今までお会いしたことがありません。

卓越した技術を持つ師匠ではありますが、その技術を手取り足取り私たちに教えてくれるようなことはありませんでした。そのため、自分の作業をしつつも師匠の手元を見ながら、技術を習得する日々を繰り返していましたね。職人としての師匠は厳格そのものでしたが、仕事を離れれば私たちを気遣ってくれるような、人間として魅力的な一面も持ち合わせていました。仕事が終われば食事に連れて行ってもらい、色々な話を聞かせてもらったりと家族よりも長い時間を過ごしましたね。

師匠がいなければ間違いなく今の自分はありません。感謝してもしきれない存在ですね。

洋菓子の世界を教えてくれた厳格な師



嶋田:

実は「洋菓子職人に俺はなるんだ!」という強い意志を持ってスタートしたものではないんですね。福岡に戻ってきて、改めて自分は何がしたいのかを考えていたんです。そんな時に父と過ごす日常の一コマを思い出しました。

家にいるときの父はいつも不機嫌で無口なんですが、たまに私の作る焼きそばやお好み焼きを食べると「お前の作った料理は、かぁちゃんより旨いぞ」と褒めてくれるんです。それがとても嬉しかったんですよね。そんな思い出を振り返っているうちに、何にもないと思っていた自分自身にも「何かを作って人を喜ばせることができるじゃないか!」と気づいたんです。

その思いは「モノを作って人を喜ばせることをしたい!」という、自分の進むべき方向を照らしてくれました。

嶋田:

自動車部品工場を辞めて福岡に帰ってきた後に、私は「マキシム」というケーキ屋さんに入ることになります。福岡県内では広く知られている有名店でした。「何もない自分だから、何かを得たい!」と本気で思っていましたから、どうせ身を置くなら厳しい環境で仕事をしたいと考えていました。

覚悟を胸に働き始めたものの、想定を超えるような環境に驚きました。労働時間の長さはもちろんですが、職人という世界なので指導も厳しく一瞬たりとも気を抜くことは許されませんでした。その厳しさで私を含め同僚たちは次々と体調を崩して入院するということも珍しくありませんでした。

華やかなイメージがあった洋菓子の世界でしたが、そのイメージとはウラハラに厳しい世界であることを当時の私は痛感しましたね。それでも逃げ出さなかったのは、東京から福岡に戻る時に決意した「私には何もないから…だから何かを得るんだ!」という強い思いがあったからでした。

嶋田:

師匠は東京の有名店で長年修行をして腕を磨いてきた超一流の菓子職人です。私は現在の歳まで洋菓子職人として様々な人の技術を見てきましたが、日本において師匠より技術を持った人には今までお会いしたことがありません。

卓越した技術を持つ師匠ではありますが、その技術を手取り足取り私たちに教えてくれるようなことはありませんでした。そのため、自分の作業をしつつも師匠の手元を見ながら、技術を習得する日々を繰り返していましたね。職人としての師匠は厳格そのものでしたが、仕事を離れれば私たちを気遣ってくれるような、人間として魅力的な一面も持ち合わせていました。仕事が終われば食事に連れて行ってもらい、色々な話を聞かせてもらったりと家族よりも長い時間を過ごしましたね。

師匠がいなければ間違いなく今の自分はありません。感謝してもしきれない存在ですね。


洋菓子の本場フランスへ…


西川:

嶋田:

厳しい師匠のもとで働き始めて5年が経過した23歳の頃、次のステップに進むべきかを悩んでいました。いくつかの技術も習得し「自分が洋菓子界で通用する人間なのか」それを確認してみたくなったんですね。マキシムで働いているだけでは自分の実力を図る術がなかったこともあり、日増しにその気持ちは大きくなっていきました。

自分の実力を図るのであれば、菓子作りの本場で挑戦することが一番だと考え、フランス行きを決めましたね。

西川:

嶋田:

そうですね…。フランス行きを決めたのはいいんですが、厳しい師匠だったこともあって、なかなか言い出せなかったんですよ。私がフランスへ行くということは、マキシムを辞めることとイコールですから…。フランス行きの決意を固めて3ヶ月ぐらい経ったでしょうか、ちょうど師匠と昼食のタイミングが一緒になったときがあったんです。ここしかない!と思って、意を決してフランス行きの話を切り出しました。すると師匠からは「フランスにそんなに行きたいなら、まずはフランス旅行に行ってこい。そこで働ける店を見つけてきたら辞めてもいいぞ」と返ってきたんです。予想していなかった返答に一瞬時が止まりましたね。ただ、フランスでの挑戦を実現するためには、いずれにしても現地で働ける場所を探す必要がありました。フランス語を話せるわけでもなく、ツテがあるわけでもありませんでしたが、自分の挑戦を実現するためには、この条件をクリアする必要があります。

意を決して向かったフランスでは、当然観光をする時間もなく、到着したその足で職探しに向かいました。翌日も朝から日本人向けの求人情報が集まる場所を探しては、その求人先へ連絡をする日々でしたね。そして、フランスの滞在もあとわずかになったときに、日本人の奥さんとイギリス人の旦那さんが切り盛りしている小さなお菓子屋さんに出会ったんです。

そして、私の洋菓子職人としての第二幕はパリでスタートすることになっていきます。

西川:

嶋田:

甘みを通して個人・家庭・地域を笑顔にし、感動の輪を広げていきたい。それが私の役割であり実現したい未来ですね。甘いものには、癒やしや安心感、幸福な時間を創造する力があると信じています。

それは、洋菓子を扱う私の店に限ったことではありません。全国的に有名な千鳥屋さんは昭和初期に飯塚で店を構えて、炭鉱で働く肉体労働者を甘みで癒やし、日本の経済発展を陰ながら支えてきた存在です。また、さかえやさんは飯塚で創業し、銘菓すくのかめを中心に多くの労働者のひとときの幸せを創造してきました。 サクレクールの看板商品でもある「レモンケーキ」が、人々の癒やしや幸福感を創造できる存在になっていけばと願っています。「お母さん、今日アレある?」という声の先に「レモンケーキ」があるような未来を実現できるように、これからも一歩一歩歩みを進めて行きたいと思います。

甘いものは単なる味覚の楽しみだけでなく、人々の心に触れ、記憶に残る瞬間を作り出す力を持っています。その力を信じ、私は洋菓子職人として、されに多くの人々に喜びと感動を届けていきたいです。そして、洋菓子を通じて、人と人のつながりを深め、地域社会に良い影響を与えることができれば、これ以上の喜びはありません。

取材終わりに嶋田氏(左)とインタビュアー西川(右)で記念撮影

洋菓子の本場フランスへ…



嶋田:

厳しい師匠のもとで働き始めて5年が経過した23歳の頃、次のステップに進むべきかを悩んでいました。いくつかの技術も習得し「自分が洋菓子界で通用する人間なのか」それを確認してみたくなったんですね。マキシムで働いているだけでは自分の実力を図る術がなかったこともあり、日増しにその気持ちは大きくなっていきました。

自分の実力を図るのであれば、菓子作りの本場で挑戦することが一番だと考え、フランス行きを決めましたね。

嶋田:

そうですね…。フランス行きを決めたのはいいんですが、厳しい師匠だったこともあって、なかなか言い出せなかったんですよ。私がフランスへ行くということは、マキシムを辞めることとイコールですから…。フランス行きの決意を固めて3ヶ月ぐらい経ったでしょうか、ちょうど師匠と昼食のタイミングが一緒になったときがあったんです。ここしかない!と思って、意を決してフランス行きの話を切り出しました。すると師匠からは「フランスにそんなに行きたいなら、まずはフランス旅行に行ってこい。そこで働ける店を見つけてきたら辞めてもいいぞ」と返ってきたんです。予想していなかった返答に一瞬時が止まりましたね。ただ、フランスでの挑戦を実現するためには、いずれにしても現地で働ける場所を探す必要がありました。フランス語を話せるわけでもなく、ツテがあるわけでもありませんでしたが、自分の挑戦を実現するためには、この条件をクリアする必要があります。

意を決して向かったフランスでは、当然観光をする時間もなく、到着したその足で職探しに向かいました。翌日も朝から日本人向けの求人情報が集まる場所を探しては、その求人先へ連絡をする日々でしたね。そして、フランスの滞在もあとわずかになったときに、日本人の奥さんとイギリス人の旦那さんが切り盛りしている小さなお菓子屋さんに出会ったんです。

そして、私の洋菓子職人としての第二幕はパリでスタートすることになっていきます。

嶋田:

甘みを通して個人・家庭・地域を笑顔にし、感動の輪を広げていきたい。それが私の役割であり実現したい未来ですね。甘いものには、癒やしや安心感、幸福な時間を創造する力があると信じています。

それは、洋菓子を扱う私の店に限ったことではありません。全国的に有名な千鳥屋さんは昭和初期に飯塚で店を構えて、炭鉱で働く肉体労働者を甘みで癒やし、日本の経済発展を陰ながら支えてきた存在です。また、さかえやさんは飯塚で創業し、銘菓すくのかめを中心に多くの労働者のひとときの幸せを創造してきました。サクレクールの看板商品でもある「レモンケーキ」が、人々の癒やしや幸福感を創造できる存在になっていけばと願っています。「お母さん、今日アレある?」という声の先に「レモンケーキ」があるような未来を実現できるように、これからも一歩一歩歩みを進めて行きたいと思います。

甘いものは単なる味覚の楽しみだけでなく、人々の心に触れ、記憶に残る瞬間を作り出す力を持っています。その力を信じ、私は洋菓子職人として、されに多くの人々に喜びと感動を届けていきたいです。そして、洋菓子を通じて、人と人のつながりを深め、地域社会に良い影響を与えることができれば、これ以上の喜びはありません。

取材終わりに嶋田氏(左)とインタビュアー西川(右)で記念撮影

<店舗情報>


店名:

洋菓子店 サクレクール

住所:

福岡県糟屋郡粕屋町長者原西2-4-14 第2センタービル1階

電話:

(092) 939 - 4649

営業時間:

10:00〜19:00

定休日:

火曜日


<店舗情報>


店名:

洋菓子店 サクレクール

住所:

福岡県糟屋郡粕屋町長者原西2-4-14 第2センタービル1階

電話:

(092) 939 - 4649

営業時間:

10:00〜19:00

定休日:

火曜日